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小学校の先生を120%楽しむ毎日

小学校教員の日々の振り返り。教員志望の学生さん、同業の方、保護者の方、教育に興味のあるすべての方へ。

先生になっても、先生に認められたい

前回のブログにまたまた嬉しいコメントが!

 環境を変えよう - 小学校の先生を120%楽しむ毎日

 

高杉さんありがとうございます。

 

教育の世界にも
「コンシューマーオリエンテッド
とさけばれはじめてますが、
いい面もあれば悪い面もありますね。

職員室になんとなく閉塞感だったり、自己不全感みたいなのが蔓延しているのは、まさにこの「コンシューマーオリエンテッド」によるものだと思っています。

変化①
保護者・子供が、安易に教員を比較する文化が根付いてきた。
「あの先生は当たりで、あの先生ははずれ」「あの先生の算数の授業はわかりにくいからいやだ」

変化②
学校(学級)評価なるものの台頭。
保護者・子供が教員の教科指導や生活指導に通知表をつけることができ、容赦なく辛口評価をする人も増えてきている。自由記述欄には教員の心を破壊しかねないような内容も書かれることもある。
さらにその結果が職員間、そして全校の保護者、地域に公表される。

まさに、
企業<消費者
という構図が、教育界にも押し寄せている。

今、ちょうどこの学校評価の時期で、職員室で結果を見て、沈んでいる先生が多い。

事実かもしれないし、努力が足りていないのかもしれない。教師としての品格も十分とはいえない。
しかし、人間はそこまで強い生き物ではない。
傷つき、その痛みから逃れるために、「あの先生のクラスより評価はまだマシ」と考える。

比較、他者評価にとらわれないことは絶対に必要だと私も思っています。
しかし、システムがそうさせなくなってきているのかもしれません。

銃をつきつけることによって、競争を引き起こすことによって、教員をちゃんとさせようとするのが今の教育行政ですね。

そんな激しい激流の中で、どうしたら気持ちよく泳いでいけるのか?
今、私はその泳ぎ方を模索しています。
このブログを読んでいるのもその一つの手段です!

 

いやあ、ありがたいですねえ。

やはり、コメントをいただくと読んでいる人のことを感じられるので、すごくやる気が湧いてきますね。

みなさん、一言、二言でもお気軽に書き込んで下さいね。

 

 

さて、高杉さんもおっしゃっていますが、

比較、他者評価にとらわれたくないんですよ。

本当にそう。

他者からの評価に縛られることは、他者の人生を生きること。

自らの人生に意味を見出し、自分の人生を生きたい。

私にとって、大きなテーマです。

 

そう。

本気で他者評価をきにしないようになりたい。

 

なりたいんですけど・・・

 

とらわれてしまう

 

今日も他者評価を気にしてる自分に気がつきました。

 

ガッカリする反面、ある程度仕方ないかなあ。とも思っています。

そもそも、我々は賞罰教育を受けてきてますからねえ。

他者からの評価を気にして、生き抜いてきたといっても過言ではないでしょう。

 

だから私は、こんな歳になり、先生になっても・・・

先生に認められたくてしょうがないです。

 

今日は卒業式準備委員会で、「毎年歌っている合唱曲を変えたい」という提案が音楽専科からありました。

 

その意図を聞くと、

「今の5、6年生の声質にあっている。」とか、「曲調があまりインパクトがない」

ということでした。

 

正直、感覚的な話で議論のしようがないなあ、と思いました。

しかし、今の6年生が5年生の時に、卒業式の歌に思い入れをもち、

「自分も6年生になったら歌えるんだ・・・」と憧れている場合があることも考慮した方がいいと思いました。

 

「なんで歌変えるんですか?」と聞いてきたときに、納得いく答えをもっていたいと思ったからです。下手したら保護者からも電話が来るパターンかな。

 

 

そもそも、私は何事も先生が主導して決めるのではなくて、あくまでも子どもに、選択と決断を迫っていったほうが、本気にさせることができると思っています。

 

なので、

 

「6年生と、音楽専科が話し合って候補曲をいくつか提示し、実行委員の子どもたちと決めてはどうか。」と提案しました。

 

しかし、答えは・・・

 

「まあ、行事だからね」

 

行事は教師主導なの??

 

そもそも学校行事の目標って学習指導要領によると・・・

 

〔学校行事〕
1 目標
 学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする

自主的,実践的な態度

を育てる。

 

なんですよね。

 

そして、儀式的行事については次のように書かれています。

 

 

(1) 儀式的行事
 学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。

 

 

つまり・・・

◯変化や折り目をつけられる。

◯厳粛で清新な気分を味わえる

◯新しい生活の展開への動機づけとなる

 

以上を条件に出して、子ども主体作ってもいいのではないのかな。。。 

 

なんてことを考えたので

その場で得意気になって、学習指導要領の文を引用して反撃してしまいました。

 

みんなもっと私の言うことに耳を傾けてよ。

という気持ちの裏に

ほら、学習指導要領を引用して卒業式のあり方について、意見しちゃってるよ。ほら、すごいでしょ。認めなさいよ。

 

という気持ちになっていることに気づきました。

 

この気持ちって、小学校の時も感じていた。

学級会などで何か議論しているとき、自分の考えが一番上等なものに見えてたし。

いい意見をいうことで、周りの友達に「すげえ」などと言われるのが大好きでした。そして、学級会の最後なんかでも先生が褒めてくれるなんてこともね。もう最高の経験です。

 

その感覚が未だに残っているんですよね。

「先生になっても、先生に認められたい」

 

結局そこなんだよなあ。