小学校の先生を120%楽しむ毎日

小学校教員の日々の振り返り。教員志望の学生さん、同業の方、保護者の方、教育に興味のあるすべての方へ。

ありがたい。ブログでの学び。

前回の記事に

お膳立て - 小学校の先生を120%楽しむ毎日

とても嬉しいコメントを、高杉竜馬様からいただくことができました。

本当にありがたいし、とても学びになります。

感謝です!

 

 

考えさせる記事です。

まず、教師が先回りすることに対して、ブログ主さんが言うようにメリット・デメリットもあります。 

教師が子供に委ねることにもメリット・デメリットがあります。

「全か無か」ではなく、バランスの問題なのかと。
苦いコーヒーが好きな人もいれば、マイルドなコーヒーが好きな人もいるわけです。
「マイルドなコーヒーが嫌いなお前はダメだ。今すぐ苦いコーヒーを飲むようにしなさい」なんて理屈は通りません。逆も同じです。

だから、ブレンドという方法を知ったり、全員が満足できるブレンドの「配合の割合」を研究したり、時にはブラック派がマイルドはにプレゼンしたり・・・

授業の仕方も基本的に同じ考えだと私は思っています。

一つの指導法には必ず弱点が存在するので、別の指導法もブレンドさせてその弱点を補う。

おそらく、管理職からはその時の様子を見てそう言ったというより、日ごろからかたよった指導に映っているのだと思います。
本人うんぬんではなく、他者からはそう見えるというのは本当によくある現象です。

そして、「教育」ではなく「公教育」はバクチではないわけですから、最低限のラインは越えさせなくてはいけない。かたよった指導法が成功した場合「大豊作」、でも失敗し「凶作」も許されないわけです。なぜなら「凶作」の被害を被るのは教師でなくその子どもたちと保護者、未来の社会なのですから。

逆に言えば、
現時点でクラスの状況が「学力よし」「生活態度・授業態度よし」「クラスの団結力よし」など、誰がどう見ても他の学年より圧倒的に優れている学級を作れている場合、おそらく何をやっても文句は出てこないと思っています。(思っていても口にできません。なぜなら「あなたのクラスはできてないじゃないですか?」とつっこまれるとわかっているからです。)

だから、私もやりたいことがおおいので、
それをめいっぱいやるため、まずは誰の目から見てもわかる「基礎学力」「生活態度・授業態度」「団結力」を突出させることを意識しています。
もちろん目的は自分が理想とする「子ども像」に育てあげるためです。


すみません。
殴り書きしました。

最近、自分の中でバースト

 

いやあ、耳がいたい。

結局のところ

 

極端な指導に見えている。

文句なしの結果を出しているとは、見なされていない

 

ということなんですよねえ。

しかも、前回の記事、クールダウンして、読んでみると腹立つ〜(笑)

 

 

「教師がいない間、安全が脅かされるような学級経営はしていません。(キリッ)」

 

 

やかましいわ!

しかも、ダサい(笑)

 


まあ、こういう私の傲慢さが、今回のようなご指摘を受けることになった一番の原因でしょう。

 そもそも、安全管理の話をしているのに、うちのクラスは100パーセント 安心って…完全にズレてるし。

 

親バカか!

と思ったので、ちょっと前回の記事訂正しました。

 

まあ、それはさておき。

 

教師が先回りして支援すること、子どもに委ねることのバランスが大事。

 

ここも共感です。

 

こちらのご高杉竜馬さんの指摘を受けて、自分がどんなところに、違和感や疑問を感じているのか、ようやく言語化できるようになりました。

 

 

そもそも主体的な活動に入る最初のきっかけは教師でいいの?

 

その答え。

 

 

溝上慎一先生のホームページが大変勉強になりました!

 

(理論)主体的な学習とは-そもそも論から「主体的・対話的で深い学び」まで

 

 

主体性とは、「行為者(主体)から対象(客体)へとすすんで働きかけるさま」と定義される。主体的な学習は、その対象が(学習)課題である。したがって、「主体的な学習(agentic learning)」とは、

 行為者(主体)が課題(客体)にすすんで働きかけて取り組まれる学習のこと 

と定義される。

 

 

 

 課題依存型の主体的学習とは、「この課題に取り組むのはおもしろい」といった例に見られるように、行為者の課題への働きかけの力点が、行為者よりも課題のほうにあるような学習を指す。学校教育の文脈においては、学習それ自体が多くの生徒学生にとって与えられる、課せられるものであることから、この課題から発現する主体性から考えることが、主体的な学習論の基本であるといえる。「主体的」な学習のすべてが主体それ自体から発現するわけではないということが、ここでは重要な理解となる。詳しく説明しよう。
 主体(subject)は客体(object)との関係においてはじめて主体たり得ると述べたように、またsubjectには「従属する」という意味があるように、

 

ここでの「主体的」とは、どちらかといえば主体(行為者)が自らつくったものというよりも、課題(客体)を与える授業の雰囲気や与えられる課題(客体)の質(おもしろさなど)に促されて、課題(客体)に働きかける主体(行為者)が発現する状況を表している。このような、課題に促されて「主体的」が発現する力学は客体依存的であり、ひいては「課題依存的」と呼べるものである。

 

なるほど、

「課題に働きかける主体が発現する状況」かー。

明るく楽しい雰囲気。課題が面白そうかどうか。

 

 

課題依存的な主体的学習は、「主体的な学習」だといいながらも、やはり課題依存の受動性を露呈する。学習課題を課すとき、教師は生徒学生の興味・関心を引くものを精いっぱい工夫して提供しなければならないが(Stefanou et al., 2013)、それでも、すべての生徒学生に興味・関心をもたせるのは現実的に難しい(Ryan & Deci, 2000)。

 

うん。

多分、ここのところを自分は痛感してしまっているんだろうなあ。

 

ある意味敗北宣言をするようで悔しいけど、私は、この点を全肯定しているから、「お膳立て」をするのが嫌いなんだ。

 

でも、このステップがあるからこそ、次のステップにいけるわけで。

やはり、課題依存型の主体的学習は必要なフェーズ?

いきなり、自己調整型の主体的学習には突入できない。ということですかね?

 

難しくてまだ、理解しきれてないのですが…。

 

ここのところを理解できれば、授業づくりや、学級づくりの意識が変わる気がします!

勉強しよう!