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小学校の先生を120%楽しむ毎日

小学校教員の日々の振り返り。教員志望の学生さん、同業の方、保護者の方、教育に興味のあるすべての方へ。

小学校がチームになる難しさ

このブログを読んでくださっている教師のみなさん。

 

管理職と職員でビジョンを共有し、学校が子どものより良い学びの場となるように、チームとして、日々教師としての仕事に取り組んでいる。

 

という意識でいる方はいらっしゃいますか?

私はチームとして、結果を出していこう!という思いをもてるようになったのはつい最近です。

しかし、それはせいぜい学年のチームとして。

学校というチームで結果を出そう!なんてはっきり言ってあまり考えたこともない。運動会くらいかな…

 

みなさんは、いかがでしょう?

 

よく、荒れている学校ほど、教師が一丸となるという話を聞きますが、普通に平和な学校が1つのチームとして機能しているかというと、そうでもない気がしています。

学校がチームとして、本気で仕事に取り組んでいれば、学級崩壊になり、授業が成り立たないことなんて、そう簡単には起こらないのではないでしょうか?

 

毎年、学級崩壊までは、いかなくとも、どこかしらの教室が荒れませんか?

私はたまたまそういう学校に巡り合っているだけなのでしょうか?

 

きっと、外に出て、様々な先生と出会い、話を聞いていると、やはり、そんなことはないのかなと思います。

つまり、学校が1つのチームになれていない。

 

今までは、学級担任制であることが1番の理由だと思っていました。

自分の学級さえうまく回せれば、毎日楽しく過ごせる。自分の居場所を守るのに必死で、他に目がいかない。協働しようなんていう発想が生まれない。ごく自然な流れだと思うし、そういう制度的、組織的な面で、チームになりづらい点もあるとは思います。

 

しかし、この記事を読んで、チームになれない本当の理由はそこではないのではないか、と思うようになりました。

 

堀江貴文氏 「デキないヤツを助けていると共倒れする」│NEWSポストセブン

 

はっきりと無視する、スルーを決めている場合もある。自分で工夫や努力をしなかったり、出すべき成果を出せていなかったりするヤツのSOSだ。顔見知りでも、切るときはあっさりと切る。羽振りのいいときは調子良くて、景気が悪いと途端にすがってくるヤツ、もしくは、できないと決めつけて、何の工夫もしないヤツは大嫌いだ。

 

教師は努力する子が大好きでしょう?

努力をしない子どもに、教師はシビアにならざるを得ない。努力をしない子どもは、教師の指導力の無さを突きつけてくるから。その子と対峙し、ストイックに自分の指導の在り方や工夫を模索するか、その子どもに対し単純に厳しい目を向けるか、どちらにしても要注目するはずです。

では、努力しない大人(教師)を見た場合どうするか。

 

はっきりと無視する、スルーを決めている場合もある。自分で工夫や努力をしなかったり、出すべき成果を出せていなかったりするヤツのSOSだ。

 

…正直

これやってませんか?

 

毎年、学級崩壊するのに、努力が見られないような先生に対して。

 

「あ、この人ダメだ」

 

と、心のどこかで諦めてませんか?

まあ、謙虚な気持ちで、他の先生が学級崩壊しないように働きかけるなんて、おこがましい。

と思っている方もいるとは思いますが…

 

 

 

ただ、そもそも

我々教師が出すべき成果は、その学校に通う子どもたちが、自立していけるように、学べる場を提供すること

ではないでしょうかね?

 

いかに自分の学級がうまくいっていて、子どもたちが多くを学んでいても、出すべき成果を出している、と言えるのでしょうか。

 

もしくは、できないと決めつけて、何の工夫もしないヤツは大嫌いだ。

 

どの学級も子どもたちが伸び伸びと学び、学校が大好きだと言っているような、そんな学校にしていくための工夫はまだまだあるはずだと信じています。

 

私にはビジネスやプライベートで、多くの仲間がいる。家族と同じぐらい信頼してい
る人もいる。仲間がピンチのときは一応、無視はしない。しかし、「仲間だから」と
いう理由だけで、無条件に助けた記憶は、ほとんどない。困っている仲間がいたら、
私にできることで最低限のサポートはするけど、別に見返りは求めないし、「後はご
自由にどうぞ」というスタンスだ。

 

学級崩壊してしまったクラスの担任の先生に対し、最低限のサポートすらできているか、分かりませんね。

 

変に面倒見のいい先生ほど、他者の課題にズカズカ入り込んで、解決しようとしてトンチンカンなことをするし。(私とか)

 

例えば、学級崩壊しているクラスに乗り込んで、「子どもたちに熱く説教をかます」とかね。

これは、サポートではなくて、ただのパフォーマンス。

むしろ、担任とのパフォーマンス力の差が浮き彫りになって悪化させるだけでしょう。

 

では、学級崩壊しているクラスの担任に、本当に必要な最低限のサポートとは、なんでしょう?

 

それは、

普段から、クラスのことについて、話を聴く

ありきたりですが、これしかないのかな、と。

 

でも、この「聴く」ってなかなか教師の苦手分野だと思うんですよ。

ある程度、力のある先生ならなおさら。

 

今までも何回も、学級崩壊が起こってから、当該級の担任の先生に話を聴く、学年の先生達。

というシーンには遭遇して、話に聴き耳を立てていました。

また、自分が臨時的任用職員として、担任をして、クラスがうまくいかなかった時に、話をする側として、体験しています。

 

そこで感じたのは

 

こうしたらいいじゃん!

なんでやらないの?

努力してんの?

ああ、この人はダメだ。変わらないわ…

 

 

という

言葉の端々から見えてくる、聴く側の先生達のメンタルモデル。

 

「大人は変えられない」

 

私などは、露骨にいわれましたね。

「私だって、これくらいの授業準備はちゃんとやるよ。それくらいやらなきゃ。」

 

まあ、これ正論なんですが、そもそも努力不足なんてことは、分かっているんですよ。

 

ただ、様々な課題感を抱え、いっぱいいっぱいで努力する気持ち的にゆとりがない。

そして…

課題感をたくさん抱えすぎて、最も大きな課題を見抜けないんです。

完全にパニック状態で、思考停止状態。

それゆえに、努力の仕方がわからない。何をすれば結果に結びつくか分かっていないんですね。

 

私は最近、Teacher's Lab. の理事をされている館野峻さんに授業を見ていただき、授業のフィードバックの仕方に感銘を受けました。

 日々学ぶ - 小学校の先生を120%楽しむ毎日

どこに感銘を受けたかというと…

 

 

 

こちらの要領の得ない話を

めちゃくちゃ聴く

姿勢です。

 

 話をしていくうちに、だんだん気持ちも落ち着いてきて、思考が少しずつクリアになっていきます。そうすると、そのうち自分の本当の課題が見えてきて、努力すべき方向性も見えてきたように思いました。(もちろん、館野さんがそれとなく誘導きてくれたのだと思いますが…)

 

 

 仮に、本当に能力が低くても構わない。でも、その能力で最大限できること、最低限の利益を自分にも周りにも還元できる工夫をしている人を、私は評価したい。長年、私の周りで成功し続けている知り合いは、そういう人たちばかりだ。

 

 私は、相手に努力の方向性を示し、導くほどの力はまだ足りないと思います。

私の日々の利益(心のゆとり)を自分にも周りにも還元するならば、

学級で困っている先生のお話を真剣に聴く

ことなのかと思います。

 

 人は、人のために生きているのではない。人のために尽くすことで、能力が増幅することはあるだろうが、それが目的になった途端、「自己犠牲」とか「共倒れ」が、美しいものに変わる。

 人は常に、自分のやりたいことのために生きるべきだ。何をしたいのか、どこに行きたいのか、何が好きなのか。自分自身に深く問い続け、そのために必要な実践を大胆に繰り返していくことで、人生は真に豊かになっていく。

 

 自分は、教員一年目、洗礼を受け、そこそこ辛い思いをしたと思っているし、学級崩壊した先生を見ると、何かしてあげたいと思います。

 

でもそれは、本当に自分がしたいことなのだろうか。

 

 

 深く問い続けていきたいものです。